魔導書工房の見習い日誌
14話 勇気の声
千尋の両脚が満足に動くようになった頃だった。もう二月も終わるかというときに、千尋の退院が決まった。退院の当日までに、病院を出てからの段取りが淡々と決まっていく。施設を決めるときのように「どうしたい?」と聞かれることがないのは、そこに千尋の意思は必要ないと言われているようだった。そうして、退院日を迎えた。
殺処分される鳥の気持ちになる。ちょうどこのくらいの時期に、鳥インフルエンザがどうとか、何万匹が殺処分とか、そういうニュースを耳にする。病気になった鳥を人が食べるのは特に問題ないそうだ。それでも、人を介して病気が鳥に広まって鳥がバタバタ死んでいくので、鶏舎にいる鳥をみんな殺さなければならない。殺して、埋めなければならない。そうしないと共倒れになってしまうから。
今日、千尋は病院を出てから魔道士協会の本部に行き、記憶をすっかり消される。それから魔法に関する事故に巻き込まれたことになって施設に入る。施設に入ることには何も抵抗がなかった。これ以上自分が誰かを傷付けることもない。ただ、故郷のことをすっかり忘れてしまうことだけが怖い。
千尋にとって雪車浦で過ごした日々は、答え合わせの済んでいない問題の束のようになっていた。もしかしたら間違っているかもしれない答えに添削を入れることができたなら、憂鬱だった日々や蔑ろにしてきた人々をもっと愛せるかもしれない。間違いを正せる日が、この先にあるのかもしれない。
だが、雪車浦を忘れてしまえば千尋はその機会を永遠に失う。間違いのあったことさえ覚えていない、正しい人のような顔をして生きている自分の未来を想像してぞっとした。
「あの……」
一生の中で一番勇気を出した「あの」を発して、千尋はもはや馴染みになった魔道士協会危機管理部逸脱対策課の二人の方へ顔を上げた。
「どうしましたか」
穏やかに、年配の男が千尋を見る。
「こ、この首輪………っ」
人差し指を、首に着けた銀の輪に引っかけた。喉と手が震えている。千尋は勢いを失わないよう焦りながら続けた。
「この首輪つけてたら、魔法、使えないんですよね……!?」
「…………ええ」
「じゃあ、あの、これ……一生外せなくていいので……俺は家族のことも、雪車浦のことも、全部覚えていたいです……!」
思い切り頭を下げたとき、空気がしんと凍った。千尋は下げた頭を上げることも出来ずに顔を青くする。言わなければ良かったと思ったが、もう遅い。
「……何言ってるんですか」
声を震わしたのは、若い女性職員だった。
「自分が何したか、わかってますか……? どうして、そんなに都合良く被害者の顔ができるんですか……」
「片瀬さん」
大きな声ではなかったが、厳しい声で咎められて片瀬は慌てて「すみません」と言った。心臓をぎゅっと掴まれたように千尋の息が浅くなる。その通りだ。千尋が、ただ「可哀相」と思われるのが嫌で、ひたすらに自分のために雪車浦の時を止めた。何も知らなかったとはいえ、千尋があの街を氷漬けにした。
罪の償い方は、自分ではない誰かが決める。覚えていたいという気持ちに如何に贖罪の気持ちが含まれようと、千尋の罪を量って沙汰を下す側が許さないのならば覚えていてはいけないのだ。選べる道も他にない。
下げた頭に血が上ったのか、ぐわんと目眩がした。それでも頭を上げられないでいると、誰かが歩いて近寄ってくるのがわかる。靴音からして、踵の高いブーツのようだった。
「――被害者でしょう。故郷と家族を奪われて、見知らぬ土地で見知らぬ大人に罪を咎められて、理不尽ではありませんか」
両頬を包むように細い指が伸びて、千尋はようやく頭を上げられた。声にはよくよく覚えがある。顔を上げた先で、ゆきが柔らかに微笑んで千尋を見ていた。心配は要らないと言い聞かせるような顔だった。
「み、なづきさん……」
「千尋君、こんにちは。退院日だと伺ったのでお祝いに参りました」
「あの、俺……水無月さんに、言ってなかったこと……」
自分は正真正銘の罪人だと。故郷を丸ごと凍らせた、最悪の魔法使いだと。知ればゆきは失望するだろうか。魔法を好きだと言った彼女は、千尋を軽蔑するかもしれない。怖くて言葉が続けられなくなった千尋に、ゆきは尚も微笑んでいた。
「もし千尋君が、たとえば五歳のときに自分に魔法を使う素養があると理解していたら。それから魔力の扱い方を学んでいたら。……あなたは、街ひとつ凍らせる力を使ってしまったでしょうか」
「………え?」
「雪車浦の件は、すみませんが存じ上げております。その上で、あれはあなたの過失ではないと思っています。魔法使いとしての教育を受ける機会を損失した結果です。千尋君のようにニーズヘッグ・エリアで生まれ、魔法の存在を知ることなく育った魔法使いが魔法によって損害を被ることは、その魔法が自身の発したものであったとしても、魔道士社会の福祉を司る魔道士協会の怠慢の結果であり落ち度です。その責任をたった十四歳の子供の人生をもってして贖い、すべて帳消しにしようというのが傲慢も甚だしい」
滔々と語るゆきは、千尋に言い聞かせるのと同時に、怒っているようだった。
「……水無月さん、怒ってますか」
「ええ、怒っています。わかりやすいように今一度お伝えしますが、千尋君。あなたは、悪くない」
じっくりと言い含め、ゆきは真っ直ぐ千尋を見ていた。そんなにきっぱりと言い切れることがあるだろうか。半ば信じられない気持ちで、それでも千尋は何もかも赦されたような安心感によって目元がぐっと熱くなる。
しかしゆきの背後に、穏やかな声が掛かる。
「……天野千尋さんの処遇については協会内で正式に承認を得たものです。我々の執務の妨害を続けるのであれば、警察を呼びますよ」
温厚なのは声音だけで、魔道士協会の職員はゆきに毅然とした態度を崩さなかった。目の前で自らの所属と職務をこれでもかと叩かれている。黙っているわけにもいかないだろう。しかし、ゆきの方も怯む様子がなかった。
「わざわざ警察を頼らずとも、魔道士協会危機管理部逸脱対策課のお二方でしたら実力行使も許されていらっしゃるのでは?」
「お詳しいですね。魔道士協会に委任された権限までご存知の方は珍しいですが……。その知識があれば『魔法の不法使用はしていないので魔道士協会職員による実力行使は妥当ではない』と重ねることも可能でしょう。ならば最初から第三者の介入をあおいだ方が無難です」
「既に私が『第三者』ですけれど」
主にゆきの対応をしていたのは男性職員だったが、片瀬という女性職員も加勢してくる。
「そもそも……っ、あなたは千尋君の関係者ですか? 連絡の取れる親族はいないはずですが」
「友人です。偶然お会いして、仲良くなりました」
「それだけですか?」
「ええ」
では、と男性職員が割って入る。
「あなたは友人のために、持ち前の知識を掲げてここまで行動に出たわけですね。素晴らしい正義感ですが……振るうときを誤ってはいけません。大人が慎重に話し合いを重ね、さまざまな規則を参照し、より良い判断をした結果がご友人ひとりの意見でひっくり返るということはまずあり得ません。まして、残念ながら我々に決定権はありませんので、やはり直談判をするにしても相手がよろしくないですね」
「…………」
「折角のお友達に忘れられてしまうのは寂しいでしょう。可能であれば、お二人が出会い直せるようささやかながらお手伝いもいたします。どうか、ご理解いただけませんか」
至って温厚な申し出に、ゆきはほとんど笑みとは言えない微笑だけ浮かべて数度まばたきを返した。何を言っているんだと、声には出していないが今にもそう吐き捨てそうな顔をしている。初めて見た冷酷さに千尋は名状しがたい不安をおぼえた。
「私は自分が寂しいから手ぶらで声だけ上げにきたわけではありません。掲げてきたのは知識ではなく人脈です。……申し遅れましたが」
コートの内ポケットから、ゆきは名刺入れを取り出してすばやく一枚引き抜いた。千尋からはよく見えないが、名刺入れを枕にしてさっと相手に差し出す。
「三番街で《薬師》をしております。星雨堂店主の水無月と申します」
殺処分される鳥の気持ちになる。ちょうどこのくらいの時期に、鳥インフルエンザがどうとか、何万匹が殺処分とか、そういうニュースを耳にする。病気になった鳥を人が食べるのは特に問題ないそうだ。それでも、人を介して病気が鳥に広まって鳥がバタバタ死んでいくので、鶏舎にいる鳥をみんな殺さなければならない。殺して、埋めなければならない。そうしないと共倒れになってしまうから。
今日、千尋は病院を出てから魔道士協会の本部に行き、記憶をすっかり消される。それから魔法に関する事故に巻き込まれたことになって施設に入る。施設に入ることには何も抵抗がなかった。これ以上自分が誰かを傷付けることもない。ただ、故郷のことをすっかり忘れてしまうことだけが怖い。
千尋にとって雪車浦で過ごした日々は、答え合わせの済んでいない問題の束のようになっていた。もしかしたら間違っているかもしれない答えに添削を入れることができたなら、憂鬱だった日々や蔑ろにしてきた人々をもっと愛せるかもしれない。間違いを正せる日が、この先にあるのかもしれない。
だが、雪車浦を忘れてしまえば千尋はその機会を永遠に失う。間違いのあったことさえ覚えていない、正しい人のような顔をして生きている自分の未来を想像してぞっとした。
「あの……」
一生の中で一番勇気を出した「あの」を発して、千尋はもはや馴染みになった魔道士協会危機管理部逸脱対策課の二人の方へ顔を上げた。
「どうしましたか」
穏やかに、年配の男が千尋を見る。
「こ、この首輪………っ」
人差し指を、首に着けた銀の輪に引っかけた。喉と手が震えている。千尋は勢いを失わないよう焦りながら続けた。
「この首輪つけてたら、魔法、使えないんですよね……!?」
「…………ええ」
「じゃあ、あの、これ……一生外せなくていいので……俺は家族のことも、雪車浦のことも、全部覚えていたいです……!」
思い切り頭を下げたとき、空気がしんと凍った。千尋は下げた頭を上げることも出来ずに顔を青くする。言わなければ良かったと思ったが、もう遅い。
「……何言ってるんですか」
声を震わしたのは、若い女性職員だった。
「自分が何したか、わかってますか……? どうして、そんなに都合良く被害者の顔ができるんですか……」
「片瀬さん」
大きな声ではなかったが、厳しい声で咎められて片瀬は慌てて「すみません」と言った。心臓をぎゅっと掴まれたように千尋の息が浅くなる。その通りだ。千尋が、ただ「可哀相」と思われるのが嫌で、ひたすらに自分のために雪車浦の時を止めた。何も知らなかったとはいえ、千尋があの街を氷漬けにした。
罪の償い方は、自分ではない誰かが決める。覚えていたいという気持ちに如何に贖罪の気持ちが含まれようと、千尋の罪を量って沙汰を下す側が許さないのならば覚えていてはいけないのだ。選べる道も他にない。
下げた頭に血が上ったのか、ぐわんと目眩がした。それでも頭を上げられないでいると、誰かが歩いて近寄ってくるのがわかる。靴音からして、踵の高いブーツのようだった。
「――被害者でしょう。故郷と家族を奪われて、見知らぬ土地で見知らぬ大人に罪を咎められて、理不尽ではありませんか」
両頬を包むように細い指が伸びて、千尋はようやく頭を上げられた。声にはよくよく覚えがある。顔を上げた先で、ゆきが柔らかに微笑んで千尋を見ていた。心配は要らないと言い聞かせるような顔だった。
「み、なづきさん……」
「千尋君、こんにちは。退院日だと伺ったのでお祝いに参りました」
「あの、俺……水無月さんに、言ってなかったこと……」
自分は正真正銘の罪人だと。故郷を丸ごと凍らせた、最悪の魔法使いだと。知ればゆきは失望するだろうか。魔法を好きだと言った彼女は、千尋を軽蔑するかもしれない。怖くて言葉が続けられなくなった千尋に、ゆきは尚も微笑んでいた。
「もし千尋君が、たとえば五歳のときに自分に魔法を使う素養があると理解していたら。それから魔力の扱い方を学んでいたら。……あなたは、街ひとつ凍らせる力を使ってしまったでしょうか」
「………え?」
「雪車浦の件は、すみませんが存じ上げております。その上で、あれはあなたの過失ではないと思っています。魔法使いとしての教育を受ける機会を損失した結果です。千尋君のようにニーズヘッグ・エリアで生まれ、魔法の存在を知ることなく育った魔法使いが魔法によって損害を被ることは、その魔法が自身の発したものであったとしても、魔道士社会の福祉を司る魔道士協会の怠慢の結果であり落ち度です。その責任をたった十四歳の子供の人生をもってして贖い、すべて帳消しにしようというのが傲慢も甚だしい」
滔々と語るゆきは、千尋に言い聞かせるのと同時に、怒っているようだった。
「……水無月さん、怒ってますか」
「ええ、怒っています。わかりやすいように今一度お伝えしますが、千尋君。あなたは、悪くない」
じっくりと言い含め、ゆきは真っ直ぐ千尋を見ていた。そんなにきっぱりと言い切れることがあるだろうか。半ば信じられない気持ちで、それでも千尋は何もかも赦されたような安心感によって目元がぐっと熱くなる。
しかしゆきの背後に、穏やかな声が掛かる。
「……天野千尋さんの処遇については協会内で正式に承認を得たものです。我々の執務の妨害を続けるのであれば、警察を呼びますよ」
温厚なのは声音だけで、魔道士協会の職員はゆきに毅然とした態度を崩さなかった。目の前で自らの所属と職務をこれでもかと叩かれている。黙っているわけにもいかないだろう。しかし、ゆきの方も怯む様子がなかった。
「わざわざ警察を頼らずとも、魔道士協会危機管理部逸脱対策課のお二方でしたら実力行使も許されていらっしゃるのでは?」
「お詳しいですね。魔道士協会に委任された権限までご存知の方は珍しいですが……。その知識があれば『魔法の不法使用はしていないので魔道士協会職員による実力行使は妥当ではない』と重ねることも可能でしょう。ならば最初から第三者の介入をあおいだ方が無難です」
「既に私が『第三者』ですけれど」
主にゆきの対応をしていたのは男性職員だったが、片瀬という女性職員も加勢してくる。
「そもそも……っ、あなたは千尋君の関係者ですか? 連絡の取れる親族はいないはずですが」
「友人です。偶然お会いして、仲良くなりました」
「それだけですか?」
「ええ」
では、と男性職員が割って入る。
「あなたは友人のために、持ち前の知識を掲げてここまで行動に出たわけですね。素晴らしい正義感ですが……振るうときを誤ってはいけません。大人が慎重に話し合いを重ね、さまざまな規則を参照し、より良い判断をした結果がご友人ひとりの意見でひっくり返るということはまずあり得ません。まして、残念ながら我々に決定権はありませんので、やはり直談判をするにしても相手がよろしくないですね」
「…………」
「折角のお友達に忘れられてしまうのは寂しいでしょう。可能であれば、お二人が出会い直せるようささやかながらお手伝いもいたします。どうか、ご理解いただけませんか」
至って温厚な申し出に、ゆきはほとんど笑みとは言えない微笑だけ浮かべて数度まばたきを返した。何を言っているんだと、声には出していないが今にもそう吐き捨てそうな顔をしている。初めて見た冷酷さに千尋は名状しがたい不安をおぼえた。
「私は自分が寂しいから手ぶらで声だけ上げにきたわけではありません。掲げてきたのは知識ではなく人脈です。……申し遅れましたが」
コートの内ポケットから、ゆきは名刺入れを取り出してすばやく一枚引き抜いた。千尋からはよく見えないが、名刺入れを枕にしてさっと相手に差し出す。
「三番街で《薬師》をしております。星雨堂店主の水無月と申します」